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『艱難汝を玉にする』参考資料1

昭和五十年四月一日 鹿児島新報社発行『不屈の系譜』より抜粋

黒葛原兼成

 甘酸適度、まさに日本一

 西園寺公も激賞 屋久島ポンカンの父

 熊毛郡屋久島町では毎年一月、ポンカンの生産農家が集まってポンカン大会を開く。この大会は町長や農協組合長をはじめ、町内のポンカン農家のほとんどが出席して盛大なものであるが、冒頭に全員が西に向かって一分間の黙とうをささげる。屋久島ポンカンの生みの親であり、また育ての親でもある故黒葛原兼成翁の遺徳をたたえ、その霊に感謝をささげるためだ。

 戦前はどこの離島でもそうであったように、屋久島もご多分にもれず目ぼしい産業がなくて貧しかった。兼成は鹿児島師範在学中から離島に深い関心をもっており、卒業五年目に自分から希望して屋久島に赴任した。そのころの屋久島は未開の島で海上、陸上とも交通が不便、文字通り県と国からも忘れられた存在であった。島民の多くは半漁半農で生計を立てていたが、きわめて貧しかった。

 兼成はこうした島の生活を見て、どうにかして島でなければ作れない特産品を取り入れ、産業を興して民生の安定を図ろうと考えた。後年台湾に渡った兼成は屋久島と台湾の気候が非常に似ていることから、台湾の亜熱帯果樹が屋久島でも十分育てられるのではないかと思いついた。そして大正十四年、台湾からポンカンの苗木二百本を導入して自らテスト栽培を始めた。これが今日の屋久島ポンカンの草分である。

 志願して離島の校長となる 兼成は明治元年(一八六八年)三月三日桃の節句に、鹿児島市池之上町で産ぶ声をあげた。父兼芳と母サキはこの子に藤太郎と命名した。元気な子ですくすくと成長したが、五歳のとき天然痘にかかった。きわめて悪質で、一時は重体に陥り、両親はもうダメだとあきらめかけたが、神仏に祈願し、夜も昼もなく看護に努めたおかげで奇跡的に助かったという。たがこのため顔には、終生取りさることの出来ない痘痕が残った。

 家は士族であったが、貧乏であった。幼いときから頭がさえていたので、小学校を卒業すると三年前に創立されたばかりの師範学校を受験した。体が小さかった藤太郎は、背伸びして試験官の目をごまかし、無事入学することができた。藤太郎が文部省からもらう奨学金は家計を助け、生来負けずぎらいであっただけに専心勉強に励み、十九年三月、優秀な成績で卒業した。ただちに薩摩郡平佐小学校(現在川内市)の校長に発令され、更に川辺郡勝目小と中甑の小学校長を歴任した。

 在学中から離島教育に特別な関心をもっていた藤太郎は、中甑小から二十三年四月、熊毛郡下屋久村(現在屋久町)の栗生小学校長になって赴任した。当時下屋久村には九部落に簡易小学校があって、この統合校長を兼任した。

 その頃、鹿児島から屋久島に渡るには定期船はなく、イサバといって二十トンほどの帆船がが三隻ほどいて、二~三昼夜もかかって月に二回ほど航海していた。陸上の交通は海岸線沿いに幅六十センチ内外の道路があるだけで、大きな川にはつり橋が架かっていたが、中、小の川は飛石伝いで渡っていた。

 こうした不便な島に自ら求めて赴任した藤太郎は、離島振興のための神の申し子ともいえるのではなかろうか。藤太郎は島の振興と開発は教育による人づくりにあると考えた。島には高等小学校がなかったので、県の学務課に強く働きかけて高等小学校の創立を実現した。校名は九州一の八重岳からとって岳南高等小学校と命名、二十八年四月の開校式は県事務官(いまの県教育長)の臨席を要請して盛大に行われた。熊毛郡では西之表の榕城工とただ二校で、村内はもちろん、上屋久村からも向学の志に燃える少年たちが入校した。

 着任当時の給料は十五円だったが、離村のときには十八円に昇給していた。このような高給者は県内で数名だけだったという。二十八年十月出水郡高野尾小へ、翌年四月には伊敷小の校長になった。

 銀行融資で島の漁業近代化 日清戦役のあと台湾は日本の領土になり、藤太郎のような積極果敢な士の渡台を望んでいた。藤太郎はこの年、名を兼成と改名して九月に台湾総督府国語学校伝習生(助教)になって台湾に渡った。翌年四月には台東地区教育所教諭に昇任した。在島約七年、判任官三級に叙せられ、三十六年四月退任して鹿児島に帰った。

 しばらく鹿児島にいたが、かつて任地であった下屋久に心引かれ、平内部落の海中温泉の山手にある約百ヘクタールの払い下げを受け、ここに永住することを決めて開墾を始めた。

 兼成は偉大な教育者であったが、企業家としての識見も高かった。少年時代から交遊のあった鹿児島電機株式会社社長の祁答院重義とはかって、屋久島の豊富な水力資源に目をつけて電源開発と森林開発を手がけることにした。その熱意は祁答院を動かし、着々と調査設計を進めたが、不況などで資金面に問題があり、また祁答院重義が死んだため、この壮図は画餅に終わった。兼成の着眼はのち、屋久島電工となって実を結んだが、当時実現を見ていたら、屋久島はもっと違った姿になっていたことであろう。

 当時の漁業は栗生を中心に各部落に五~六トンの帆船が二、三隻いて、男は七島付近まで出かけてカツオ漁をしていた。カツオ漁のほか、五~六月ごろ、島の沿岸に押寄せてくるトビウオ漁で一年の生活をまかなっていた。男が出漁したあと女は細々とカライモを作る。水田はあまりなく、カライモが常食で、わずかに麦とアワを作り、米のご飯を食べるのは正月と盆、それに葬式のときぐらいであった。とにかく貧しく、現金収入はカツオとトビウオ漁で、それで一年分のミソやショウユを自家製していた。

 こんな原始的な操業ではとてもうだつがあがらない。そのうえ本土の漁船はだんだん帆船から動力に切替えていることを知って兼成は船主に漁業の近代化を提案、農工銀行から一万五千円の低利資金を借りて、栗生で初めて動力船五隻を造った。漁業近代化のはしりである。そのころ屋久島の人は鹿児島との往来も少なく、財界とのつながりは全然なかった。兼成は財界や銀行に顔がきいていたので、兼成個人の信用だけで当時としては莫大な借入れが出来たのである。

 台湾ポンカンの苗木を移入 兼成は島の現状を見るにつけ、こうした産業形態ではいつまでたっても貧乏から抜け出せない。何か新しい産業を興して島の経済を豊かにしたいと日夜考え続けた。このときふとひらめいたのが、台湾でいたところがちょうど屋久島の気候状態と似ていることがあった。そうだ、パイナップルやバナナを栽培したら成功するのではないか―思いつくと矢も楯もたまらなくなって、さっそく台湾に渡ってバナナとパインの苗を持ち帰った。

 ところがこれは経営的に思わしくないことがわかり、ちょっぴりがっかりしたが、再び台湾に出かけてポンカンの苗木を二百本持ってきた。この二百本が屋久島ポンカンの始まりである。大正十四年であった。

 二百本のうち約二十本を隣部落の有志に一、二本ずつ分けて植えさせ、残りは自分の畑に植えた。この木がやがては島をうるおす金のなる木になると、一つひとつ植穴を自分で掘って一本一本ていねいに植えた。

 木は順調に成長したが、どうしたわけか実がうまく止まらない。こんなはずはないと肥料の加減をしたり、剪定をしてみたが、期待通りにゆかない。思い余って県の柑橘試験場垂水分場に相談した。垂水分場はミカンの権威者であった園田技師をわざわざ屋久島まで出張させて研究させた。その結果ついにポンカンの結実に成功した。兼成が夢にまで見た金のなる木が日の目を見たのだ。

 これで自信をもった兼成はさらに苗木を台湾から移入し、村内の農家に普及奨励を始めた。さて次は販売、屋久島ポンカンの声価を高めるには、どうしても大消費地である東京で売ることである。それにはまずおひざもとの県庁の役人に認識させることだと、出張の度にカバンいっぱいポンカンを詰めて、時の知事中村安二郎や部、課長に配ってまわった。中村知事は「黒葛原さん、ほんとうにあなたが作ったものですか。とてもうまい」とたいへんなほめようだった。

 陛下にも献上したいと県に相談したが、当時陛下に献上することは困難であった。知事の肝入りで元老の西園寺公望に贈呈した。ハイカラな西園寺公は世界中の果物を日常食べていた。台湾ポンカンの味も知っていたので、兼成のポンカンを食べて「これは台湾産ではない。どこの産か」と執事に尋ねた。執事が「鹿児島県の屋久島産です」と答えると「台湾ポンカンは甘すぎるが、これは甘酸適度にしてまさに日本一である」と激賞したという。これを聞いた兼成は大いなる自信に胸をふくらませて、島の農家に大々的に普及することになった。

 東京の千疋屋が一手に取引 昭和十六年村のためにと強くせがまれて名誉村長になった。当時、村財政は極度に窮迫して役場職員や小学校教員の給料は四、五ヵ月も遅延していた。兼成は相当額の恩給で生活していたので、少しでも村費の軽減を図ろうと無給の名誉村長ならと引受けた。この間には村会議員四期、郡会議員三期を勤め、村政、郡政に尽くしている。また自ら製茶工場を建てて茶業を奨励したり、教育、産業、政治など多方面に活動した。

 村長になると勤務は週に三、四日だったが、事務的な仕事は助役と職員に任せ、もっぱら県庁や支庁との折衝と産業振興につぶした。当時は村内には木炭バスが走っていたが、開墾地に住んでいた兼成は、出勤の日にはバスの通る県道ばたに赤布を立てておき、運転手はそれを見て警笛を鳴らした。

 村民をいつまでも貧乏のままでおくことは村長としての力がない。民生安定と福祉向上が大切であると、暇をみつけては各部落で開く農業振興会に必ず出かけた。また農家を訪ねて「五円のカライモを作るには馬一駄でも足りない。ポンカンならわずか三貫入りの一箱、片手で持つだけで取れる。ポンカンをうんと作れ。必ず裕福な暮らしができる」と村民一人ひとりに訓すように話した。村民の多くは兼成を“ポンカン村長”と呼んだが、兼成はこうしたかげ口をきき流してポンカンの普及に全力を打込んだ。

 十五年十月、紀元二千六百年式典のとき、県知事新居善太郎は兼成の産業功労者としての業績をたたえ、銀盃を贈って表彰した。当時離島からこうした賞を受けることはまれであった。

 兼成ポンカンは西園寺公が激賞したことから、東京千疋屋がわざわざ屋久島まで黒葛原農園を訪れ、全生産品を引受けると契約して、その後ずっと千疋屋と取引きすることになった。

 兼成はおよそ千本のポンカンを植え、製茶工場もあったので、常時下男、下女二~三人がいた。このほかに常雇人夫が七、八人働いていた。十二月になるとポンカンの出荷が始まり、いまのようなボール箱の化粧容器でなく、松板でつくった三貫詰箱で、翌日約二十キロ離れた安房港から船積みするため、荷馬車に山積みして夜中の一~二時に出発した。その頃は島には日稼ぎがほとんどなかったので、付近の人たちにとって兼成のポンカン園で働くことは唯一の稼ぎ場であった。

 好事魔多し。事業が軌道に乗ってきたとき、長男兼文が四十二歳で不慮の死をとげた。後継を失った兼成はがっくりし、一時は途方に暮れた。けれども長男の遺児が三人いたので、その成長に夢を託そうと、沈みがちになる心を奮いおこして経営を続けた。

 そのうち太平洋戦争が末期になり、人手がだんだん不足しだした。それにつれて農園も荒れはじめた。兼成は老齢になり、孫は小さく、少ない家族の労力で千本の管理は容易ではなかった。

 これを知った近くの八幡国民学校の脇田秀五郎校長は「屋久島ポンカン発祥の園を荒廃させては村民の恥である」と全職員と学童が労力奉仕して、ようやく荒廃を免れた。兼成は脇田校長と職員、学童の義挙に感泣した。

 これよりさき、兼成はポンカンの増産が進み、産業が軌道に乗ったことで、自分の任務は終わったと、村長を一期で辞任、昭和二十六年十二月六日、八十三歳で死去した。

 ポンカンは屋久島のほか、県内各地で広く栽培されるようになった。面積が拡大され量が増大しても、屋久島の天然の気象がつくりだす屋久島ポンカンは、西園寺公の評をまつまでもなく“甘酸適度にしてまさに日本一”の声価は永劫に変わらない。

 下屋久村はこの偉大な功績をたたえて兼成の死後二年経った二十八年十二月、村費五万円と生産農家のきょ金十五万円計二十五万円で高さ約一メートル、幅一・五メートルのみかげ石の自然石に時の知事重成格の碑文で頌徳碑を建立した。場所は兼成が名誉村長になって出勤するとき、赤布を立ててバスに乗った県道沿いに。(岩川 澄猛)

昭和五十年四月一日 鹿児島新報社発行『不屈の系譜』より

参考資料2 第18回 新 黒葛原兼成翁小伝

2021年夏、屋久島灯台が国の有形文化財に登録される見込みです。

この灯台は明治30年に建てられて以来120年以上の歳月に渡り、航海の安全に寄与してきました。

特に日清戦争の勝利の後、清より割譲され統治下に置かれた台湾との間では、物資や人の往来で多くの船が行きかったことでしょう。

台湾と樟脳

台湾では清代より、山林産業の重要な資源としてクスノキが栽培され、生薬・材木・防腐剤が産出されていました。

その中でも布や紙の防虫効果に優れた樟脳は、クスノキの枝を蒸留してつくられる結晶であり、今の時代にも着物の防虫剤として根強い人気があります。

19世紀末イギリスにおいて、その樟脳から人口象牙とも呼ばれるセルロイドをつくる技術が発見されると、樟脳の需要が一気に増大しました。

加工が容易なセルロイドは写真や映画のフィルム、玩具の原料、自動車のガラスへの応用や日用品の製造にも利用されました。

日本が下関講和条約において台湾を統治下に置くことになったものの当時「樟脳利権」を独占していたのは欧米の商人達でした。

そこで日本はその利権を得るべく様々な施策を打ち、官民一体となってようやく樟脳輸出の独占権を確立し、世界一の樟脳産出国になった上セルロイドの製造・輸出も世界一になりました。

クスノキは台湾から南日本かけてに自生する樹木であり、屋久島灯台のある岬の西側には今でもクスノキの森が広がっています。太平洋戦争当時は屋久島でも「樟脳を焼き」軍需物資として国に納めていました。