泊如竹翁年表(安房本佛寺による)

1570年(永禄13年) 1月17日船大工泊太次衛門と初亀の長男として安房浜町初亀の実家にて生まれ、名を市兵衛と名づけられる。(通称元亀元年)

1575年(天正3年) 6歳で本佛寺に入寺得度する

1582年(天正12年)6月2日明智光秀本能寺の変

同年  屋久島大乗坊と道本は嶋織物一反、八郎佐衛門は琉球布と白嶋織一反、松下土佐助は赤緞子一反を本能寺に上納(能文)

1587年(天正15年) 尼崎本興寺檀林に入る(18歳)

1588年(天正16年)京都本能寺日衍聖人の本能寺再建の手助けに日逕(ニチキョウ)上人に随身して負笈

1595年(文禄4年)屋久島が島津以久(ユキヒサ)の領地となる。城主の命により屋久島置目を出し代官所を置く。この時本佛寺の古文書や過去帳が焼却される。

1605年(慶長10年)京都市中に同僚の僧と藤原惺窩の講演を再三聴講するが、疑問に思う。大隅尚興寺住僧釈文之点と知り、本能寺を辞して薩摩大龍寺文之和尚に就いて宋儒の学を受ける。これより如竹散人と号す。(36歳)

1613年(慶長18年)修行を終え本佛寺に帰山し住職す。

1614年(慶長19年)母初亀逝去(45歳)

1619年 文之入寂

1620年(元和6年)京都本能寺、尼崎本興寺に継ぎ目式に参り、有馬温泉に入る。その時伊勢藤堂家家老何某と逢い、如竹の高い見識と四書五経は言うに及ばず、仏教に対する経論釈書に通ずるを知り、藩主高虎に進言し、貢物厚くして招聘す、江戸藩内に本佛寺を建て住まいさせる。400石15人扶持として藤堂高虎の顧問となる。(51歳)

1624年(寛永元年)桂庵和尚の「家法和点」を刊行する。

1625年(寛永2年)文之点の「四書集註」を刊行する。(56歳)

1627年(寛永4年)11月「周易程傳本義」を刊行する。(58歳)

1629年(寛永6年)文之著述の貶愚論恭異問答等に跋をし「南浦文集」を刊行する。

1630年(寛永7年)藤堂高虎逝去、嗣君高次学を好まず辞して、京都に赴き経を講じ聴徒多し、後に帰山す。(61歳)

1632年(寛永9年)明人秀才中山に来るを聞き琉球に赴く。(63歳)

1633年(寛永10年)秀才を師として四書や詩書を講究す。理学成熟成るを琉球王尚豊これを聞き如竹に師事す。尚豊王は如竹を敬い名を贈り了線と呼ぶ。琉球の恵比寿族、未だ礼儀を知らず、教えることは専ら人倫を説く。西土の人(福建省)梁澤民、中山にある時如竹を敬い、住まいを顧天庵と名付ける。(64歳)

1635年(寛永12年)琉球より本佛寺に帰山す。その際唐芋を持ち帰り島内に栽培を普及する。(66歳)

1636年(寛永13年)大阪に講莚を張る。近隣の嗣君(若君)多しと言う。

1638年(寛永15年)大阪より帰山、本佛寺を改築する。(69歳)

1640年(寛永17年)正月愛甲廣隆喜春(アイコウコウリュウキハル)志布志より屋久島本佛寺に参り、如竹翁に弟子入りす。

同年 6月初め、伊勢貞昌、島津久慶(ヒサヨシ・・・父家久お気に入りの家老、後に閑職に追放サル)に書を賜りて寛庿公(カンビョウコウ・光久)に如竹を薦める。同月門人愛甲喜春を随えて鹿府に至る。上厩地に本佛寺を建てて翁に授け、禄を300石賜う。(71歳)

1642年(寛永19年)6月如竹翁病気療養を願う、5日後有栄名を伝え許す。(71歳)

1643年(寛永20年)寛庿公江戸より帰城し、如竹翁を招請す、翁鹿城に赴く

1644年(寛永21年)寛庿公江戸に行く。如竹病気療養のため屋久島に帰る。

1645年(正保2年)正月寛庿公江戸に在り、また鹿府に帰る。翁病ようやく平癒す。これより翁府下にありて公に侍講しかつ士太夫(家来)に教授すること久し。

同年 4月寛庿公に如竹「孟子」を講ず。

1647年(正保4年)島津家を辞して屋久島に帰山する。城内の本佛寺を残してほしいとの要望を断り売却しその代金を持ち帰る。養老扶持200石を賜う。

1648年(正保5年)~ 明星岳の麓より湧き出ずる水を源流とするナガマ川(用水川)より石を砕き地を掘り、石を積み、村中に水を潤す。また屋久杉の伐採を奨励し実践させた。この頃の翁の棟札は火伏(防)の札として珍重される。

1655年(明暦元年)乙未5月25日(一説には2年丙申とも、5月15日とも)如竹翁遷化。