2021年夏、屋久島灯台が国の有形文化財に登録される見込みです。

この灯台は明治30年に建てられて以来120年以上の歳月に渡り、航海の安全に寄与してきました。

特に日清戦争の勝利の後、清より割譲され統治下に置かれた台湾との間では、物資や人の往来で多くの船が行きかったことでしょう。

台湾と樟脳

台湾では清代より、山林産業の重要な資源としてクスノキが栽培され、生薬・材木・防腐剤が産出されていました。

その中でも布や紙の防虫効果に優れた樟脳は、クスノキの枝を蒸留してつくられる結晶であり、今の時代にも着物の防虫剤として根強い人気があります。

19世紀末イギリスにおいて、その樟脳から人口象牙とも呼ばれるセルロイドをつくる技術が発見されると、樟脳の需要が一気に増大しました。

加工が容易なセルロイドは写真や映画のフィルム、玩具の原料、自動車のガラスへの応用や日用品の製造にも利用されました。

日本が下関講和条約において台湾を統治下に置くことになったものの当時「樟脳利権」を独占していたのは欧米の商人達でした。

そこで日本はその利権を得るべく様々な施策を打ち、官民一体となってようやく樟脳輸出の独占権を確立し、世界一の樟脳産出国になった上セルロイドの製造・輸出も世界一になりました。

クスノキは台湾から南日本かけてに自生する樹木であり、屋久島灯台のある岬の西側には今でもクスノキの森が広がっています。太平洋戦争当時は屋久島でも「樟脳を焼き」軍需物資として国に納めていました。